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『呉・三国志』二 孫策の巻





『呉・三国志』二 孫策の巻



なんとなく、歴史物、三国志関連の物が読みたいなと読み返してみて、

巻頭にちよさんの噛んだあとが残っていて、涙。



それはさておき、

三国志、魏呉蜀の中で一番影が薄く、やる気の感じられない呉。(イメージ)

その中では、天下を狙う気持ちが一番横溢していた孫策の時代を描いた時代小説。



個人的な感想としては、

個々の登場人物についての枝葉の記述が少し分量が多くて本筋を追いづらいなとは思いますが、

もっと枝葉の多い某歴史小説家よりはマシなので許容範囲内です。



妖術対決、縄術使いなどが出てきて、

吉川英治の『三国志』よりはエンターテイメント色がつよいのかなと思いますが、

先に吉川英治を読んでしまっているので、そう思うのかもしれません。



当たり前ですが、子供のころに吉川英治の『三国志』を読んだときの、



誰が主要登場人物か(予備知識がないので)わからず、

誰が生き残り、誰が敗亡するのか、



ドキドキしながら読んだ気持ちは、もう戻ってこないので、

于吉と左慈の扱いが、吉川三国志とは違うなとか、

予備知識をもって他と比べてしまう自分が少し悲しかったりします。



僕は某大学の史学科東洋史学専攻だったのですが、

ほとんどの学生は、東洋史のきっかけは吉川英治の『三国志』でした。



僕の場合も吉川三国志から井上靖の『蒼き狼』『敦煌』『楼蘭』というコースで、

次第に東洋史に興味を持つようになりました。

そんなわけで井上靖が没後に少し忘れられた作家のようになっている現状を淋しく感じます。



話は飛びましたが、

三国の中では、地味な呉ですが、

呉、東晋、宋、斉、梁、陳 は江南に栄えた王朝として、

六朝(りくちょう)文化を繁栄させたので、

その基礎になる部分を作ったという意味では、

呉の果たした役割は大きいんですよね。



江南の開発が進み、経済上の役割が大きくなり、

その江南と華北を結びつけるために隋代になり大運河が建設されて、

政治上も経済上も結びついていくわけですから。



南朝には、倭の五王が朝貢したという記録があり、

それぞれ官位を授けられているので、

ある意味、馴染み深い王朝でもあるわけですが、

あんまり習った記憶のない時代でもあります。



卑弥呼は魏に朝貢して「親魏倭王」の位を授けられているので、

同時代の他の日本の首長が呉に朝貢して、なんらかの位を授けられていたりして、

なんて想像をすると楽しいですが、さすがに記録に残るだろうな。
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テーマ : 読んだ本。
ジャンル : 本・雑誌

『ステップファザー・ステップ』





久しぶりで宮部みゆきさんの作品を再読してみることにして、

ステップファザー・ステップ」を読み返してみた。

(リンク先の表紙が、僕の持っているのと全然絵が違いますが…)



宮部みゆきさんの本を読むと、温かい気持ちになる。

「袖すりあうも多少の縁」といったらいいのか、

「淋しいとき淋しいと感じる人間同士の関係を優先した方が、世の中楽しくなるに決まってる。」

なんて一文でもわかるように、

淋しい人同士が寄り添って温かいものを育てていくのが感じられるからだろうか。

この本の「お父さん」と直、哲の双子の関係もそうだし、

レベル7』の生命保険会社の相談所の真行寺さんとレベル7に行こうとした女の子の関係も、

魔術はささやく』の守君と絵が大好きな友人の関係もそうだと思う。

(手元にないので名前が違うかも)



そんな人間関係を傷の舐めあいと揶揄することも可能なのだけれど、

それだけに終わらせないような独特の温かみが、

宮部みゆきさんの作品にはあるような気がする。



再読して感じたのは、

この短編集の中に他の作品に通じる要素が色々入っていたんだなということ。

冒頭の短編「ステップファザー・ステップ」で井口雅子になり代わって生きていこうとする女性は、

火車』の新城喬子を思わせるし、

「ヘルター・スケルター」の

轢き逃げが他の事件の中に隠されているさまは『魔術はささやく』を連想させる。

(「ヘルター・スケルター」というタイトルの短編が入っていたことさえ、

 記憶になかったので、すこし驚いた。

 同名タイトルの岡崎京子さんの漫画についてもいつか感想を書いてみたい)



で、巻末の解説代わりの「メイキング・オブ宮部みゆき」の最後に、

(『火車』は)まずラストシーンが書きたかったんです。

捜しに捜してきた女性がドアを開けて入ってくる。

それを主人公が少し離れたところから見ている。

でも、一言も声をかけないで終わる、その場面を書きたいと。



と宮部みゆきさんが発言しているのに、納得。



『火車』を読んでラストがとても印象的で余韻のある良い終わり方だと感じていたので、

作者の宮部みゆきさんの術中にいいようにはまった自分が、とてもうれしかったのでした。



『火車』はいろんな意味で、

僕にとっては特別な作品なので、いつか感想を書いてみたいと思います。



ラストシーンの良さが記憶に残る作品といえば、

『火車』と映画『ジョゼと虎と魚たち』が、僕の中では双璧かなと思います。

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ジャンル : 本・雑誌

「南北朝」を読んで






林屋辰三郎 「南北朝」を読んで


最初に出版されたのが、1957年と古いために無理からぬところもあるのだが、納得いかない部分が目につく。



もっとも納得いかなかったのは、「古代国家」について言及している部分。

「義経の場合はその前半性においては、古代国家を打倒する革命的行動を実践し」(P.66)とありながら、
「南北朝内乱は、古代国家の終わりをはっきり示した内乱」(P.169)ともある。

では「古代国家」が決定的に破壊されないまま、
平安末から室町時代初期までずっとのたうちながら継続していたという認識なのだろうか?

では、その期間は「古代国家」が継続しているからには、「古代」なのだろうか。

だとすると、平安時代までを古代とみる旧来の説と較べても、
かなり特異な説だと思われるのだが、一切の説明がない。

それとも、古代国家の残滓は残りながらも、中世は開幕していたということなのだろうか。
そもそも、「古代国家」の定義はなんなのだろうか?



二点目は、

「尊氏に関しては今日でも一種の先入観をもっている人々が多い」(P.100)と著者自身が書きながら、
著者自身が南朝を正当とする考えを文章の端々に感じること。


「後醍醐天皇の認証のもとで幕府をひらきたいという欲求にかられてのことであったろう」(P.82)と、
足利尊氏が後醍醐天皇により征夷大将軍に任じられたがっていたとの記述があるが、

これは何か当時の文献による根拠があるのだろうか。
それとも単なる当て推量?


「この時期に天皇は三人できたことになる」(P.85)と述べられているように、
後醍醐天皇、北陸の新田義貞の擁する恒良親王(天皇)、光明天皇の三帝の綸旨が、

3つのルートからそれぞれ出ているというようなことは、

天皇をいただくシステムにとって、天皇の権威が低下する根本であるので、

後醍醐天皇と和睦して、綸旨の出るルートを一本化し
天皇権威の回復を図るという意図であったように思えてならない。


著者は、「謀略家」などと好意的とも取れる評価を後醍醐天皇に与えているが、
正直、我欲を最優先させて、統治する者としての天皇の権威を貶めるような

三帝の並立する状態を出現させた後醍醐天皇は、
綸旨至上主義をとりながら、天皇の権威を低下させた最大の元凶であるように思う。


新田義貞を倒して、征夷大将軍に任じられる際の記述としてまたも、
「わずかに残る一抹の不安は、やはり後醍醐天皇のもとではないということであったろう」(P.92)と
書かれているが、

これも北陸の恒良親王(天皇)を通して出ていた綸旨が、
せめて後醍醐と光明の二帝に抑えられたことに対して、安堵の気持ちはあっただろうとおもうが、

「後醍醐のもとで」というような無邪気な子供のような気持ちをもっている政治家では、
足利尊氏はないように思う。



「後醍醐天皇のように律令国家を復活させることが正しい道かどうかを、
はっきり見きわめることがたいせつである」(P.99~100)

と著者自身が書きつつ、尊氏が

「後醍醐天皇に対して、何かの罪業意識をもっているかのようにも、うけとれる」(P.102)ともいうのは、
なんだか情緒的にすぎるような気がする。


後醍醐天皇が崩じた際に、尊氏は
「直ちに幕府の雑訴を七日間停止し、すべてを崇徳院の例に任せて執り行った」とあるように、

京外の地で亡くなった後醍醐天皇が崇徳院のように、祟りをもって世に残るのを防ぐためで、

「このような天皇に対する尊氏の恩徳報謝の念は、さきにみたような天皇の尊氏に対する態度と対照すると、
はるかに純粋なものであったということになろう」(P.103)

というような読みはあたらないのではないかと思う。
祟ってくれるなという鎮魂の意味もこめて天竜禅寺を建立したのではないだろうか。



後醍醐天皇と足利尊氏の文脈で、作者の南朝正統、後醍醐正統臭を感じたのは、
以上に書いたような部分で、



南朝側についての記述で奇異に感じたのは、

まず楠木正成についての部分では、

『吾妻鏡』から楠木氏が現われる場面を拾い、前後に忍三郎、忍五郎という名があるからといって、

「楠木氏が、いざという場面には間諜の役目をもって敵陣の同棲をさぐり敵方の秘密をかぎ出すような、
一種の雑役に従う人々と、深い関係にあったことを示す」(P.64)とは、

無理がありすぎるのではと思う。
どうかんがえても地名の忍(おし)からくる名前だろうとおもう。


また、「皇室の前途のためには尊氏との和睦をも主張するような柔軟性をも持ち合わせていた人物」(P.77)と、

楠木正成を評価するが、楠木正成が新田を捨てて、足利と和睦するように勧めたのは
「皇室の前途」のためなんだろうか。

楠木正成自身の生き残りから考えても、
そのような進言に従ってくれた方がありがたいだろうし、

楠木正成の従来の戦いの経緯から見ても、楠木正成は護良親王系の人物で、
それほど後醍醐天皇に対して格別の親近感をもっていたようには思えないのだが。



楠木氏以外の面で、南朝の記述についてのおかしいと思うところは、

東国(常陸)で基盤を築くことに失敗して吉野に帰ってきた北畠親房について、

「親房の帰来は吉野側に大きな安堵を与えたばかりでなく、前途にかなりの希望を与えたことと思われる」
(P.130)と

書いているが、親房が大群を率いて帰来したのであればともかく、
常陸にいることもできなくなって吉野に帰ってきたことがどうして希望を与えるのかと感じざるをえないし、


高師直・師泰の軍が、楠木正行の軍を破り、正行を敗死させ、
その後、熊野を焼き払って、後村上天皇のあとを追おうとして時に、野伏ら数千騎に追われたことを、

P.133「やはり地方民衆の同情が吉野側にあったことを物語るものであろう」(P.133)

と述べているが、
熊野三山の僧兵勢力かなにかであろうか野伏の勢力、

つまり地元の寺社の勢力ですら、このような窮地にならねば動員できないとは、
南朝の軍事的状況はお寒いといわざるを得ないと思う。


そんなわけで、あまり納得のいかない記述が目についたのでした。

テーマ : 読書感想
ジャンル : 本・雑誌

北京原人についての小話





「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」という本を読んでいます

(もちろん、タイトルは同タイトルのゴーギャンの絵画からとられているのですけれども、
 この絵画をみると、なんだか原初的な混沌といったものを感じて不安になるのは、僕だけでしょうか)。


この中で、北京原人が「ホモ・エレクトス・ペキネンシス」と紹介されていてビックリしました。

「シナントロプス・ペキネンシス」という北京原人の学名を覚えているのが、

数少ない僕の「へぇー」の元だったので、残念です。


しかも、そう遠くない過去になにかの拍子に北京原人の学名が「シナントロプス・ペキネンシス」だと、
他人様に話したような気がするんですよね。


相手が誰だったのかさっぱり覚えていないので、
その人がそのことを覚えることなく、
いっときの雑談のネタとして忘れていることを祈るばかりです。


ちなみに、旧学名の「シナントロプス・ペキネンシス」を覚えたのは、

子供の頃に「北京原人展」という展覧会に連れて行ってもらい、そこで覚えたような気がします。

ただし、その「北京原人展」で、

父親に「さっきの展示とこっちの展示どっちが古いん?」などと質問攻めにしたところ、

おそらく父自身もわかっていなかったために逆ギレされ、

「お前には自分で勉強するという心がないのか!!」と

会場でキツい口調で叱責され、その後の展示を泣きながら見たのは、
今になっても拭えない苦い思い出です。

テーマ : どうでもいい話
ジャンル : 日記

天下三不如意、賀茂川の水について補足





先日、ここで、「平安王朝」読書メモという文を書いたのですが、

そこで

>で、思ったのは、白河院が言ったとされるいわゆる「天下三不如意」(てんかさんふにょい)、

>「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師」

>すべて意のままになる白河院でもこの三つは意のままにならないということなんですが、
>高校の日本史で習ったときや、この本を読んだときも特別気にならなかったのですが、

>いま読んで思うは、

>「最高権力者なら、賀茂川の治水工事をすればいいじゃないか」

>ということです。
>中国の権力者なら、人気取りにもなりますし、治水工事をすると思うんですよね。


>治水工事をするという発想がなかったのか、
>技術がなかったのか、
>お金がなかったのか、


>いずれにせよ、最高権力者というには小さいなと思ってしまうのは自分だけでしょうか?


(>部分前回のまま引用)
と書いたのですが、

朝廷としても、洪水対策をしようという意志はあったようですね。

別の中世史の本を読んでいた際に、登場人物の藤原顕隆を検索したところ、

彼についてのウィキペディアの記事の中に、

「防鴨河使」なる官歴があるのを発見。


官職要解で調べてみたところ、

防鴨河使…ぼうかしとよむ。鴨の字は省いてよまぬ例である。なが雨が降ったときは、鴨川に出水して損害をうくることがしばしばであったから、臨時にこの役をおいて、堤防の崩壊したところなど修繕して浸水をふせがせた。『夫木抄』に「かも川をふせぐ司(つかさ)もこころせよつつみくづるるさみだれの頃」と見えている。長官一人、判官、主典各二人で、検非違使の佐・尉・志などをもって任じたのである。


との説明がありました。

藤原顕隆は白河院政期の人物ですし、いちおう治水しようという意志はあったが、

資金なり、技術なりの問題でできなかったのだということで、多少は納得しました。


ただ、「寺社勢力の中世」の中世京都地図(P.35)によると、

鴨川の堤防は、一条から四条坊門までで、
これだと二条以南のいわゆる下京は大雨が降るとあっという間に水浸しですよね。

堤防を延長しようという気はなかったのでしょうか。


上の中世京都地図と本文中の記述によると洪水の危険地帯は、東洞院通あたりまで拡がっていたとのことで、

いまの四条通でいうと

大きな地図で見る
大丸京都店の西の通りまでが、
大きな意味での鴨川の河原のような状態だったということなので、

天井川の鴨川をもてあまして、

「貧乏人が住んでいるような河原などしらん。いやなら別のところに住め」ぐらいの感覚だったのでしょうか。

(ちなみに、河原とされる地域にもたくさんの人家が立ち並び、
 流水量が少ない時期には、その建物を伝って鴨川を渡って火事が延焼する様子だったそうです)


京都市の歴史資料館の関連ホームページ上でも、

> 寛文9(1669)年鴨川両岸に新しい石堤の築造が開始され,翌年完成しました。
>この石垣を寛文新堤(かんぶんしんてい)といいます。
>この護岸工事が行われるまでは,鴨川は左右に河原が広がる自然河川でした


と鴨川は中世期はほぼ堤防がない状態であったと記述されています。

こんな状態で、

白河法皇に「おれは京都という都市の王様で、思いのままにならないことなど三つしかない」

と威張られても納得しがたいのですが、
あたり前ですが、これはいまの感覚から見ればということで、

為政者も庶民の側も、これが京都の普通の姿だ、ぐらいの受けとめ方だったのかもしれませんね。


水害がでれば、衛生面でもとても問題があるでしょうし、
「普通」と受けとめるにはあまりに過酷な「普通」なのでしょうが。


ちなみに、上記「寺社勢力の中世」と同じ著者の「無縁所の中世」は、
ものすごく興味深く、日本の中世を見る目が180度変わると言いたくなるぐらいの本です。

機会があったら、また感想文なりメモなりを書きたいと思います。

テーマ : 読書メモ
ジャンル : 本・雑誌

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Author:ごっちゃん親父
こんにちは。
身近な出来事を駄文ながら綴りたいと思います。

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