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「南北朝」を読んで






林屋辰三郎 「南北朝」を読んで


最初に出版されたのが、1957年と古いために無理からぬところもあるのだが、納得いかない部分が目につく。



もっとも納得いかなかったのは、「古代国家」について言及している部分。

「義経の場合はその前半性においては、古代国家を打倒する革命的行動を実践し」(P.66)とありながら、
「南北朝内乱は、古代国家の終わりをはっきり示した内乱」(P.169)ともある。

では「古代国家」が決定的に破壊されないまま、
平安末から室町時代初期までずっとのたうちながら継続していたという認識なのだろうか?

では、その期間は「古代国家」が継続しているからには、「古代」なのだろうか。

だとすると、平安時代までを古代とみる旧来の説と較べても、
かなり特異な説だと思われるのだが、一切の説明がない。

それとも、古代国家の残滓は残りながらも、中世は開幕していたということなのだろうか。
そもそも、「古代国家」の定義はなんなのだろうか?



二点目は、

「尊氏に関しては今日でも一種の先入観をもっている人々が多い」(P.100)と著者自身が書きながら、
著者自身が南朝を正当とする考えを文章の端々に感じること。


「後醍醐天皇の認証のもとで幕府をひらきたいという欲求にかられてのことであったろう」(P.82)と、
足利尊氏が後醍醐天皇により征夷大将軍に任じられたがっていたとの記述があるが、

これは何か当時の文献による根拠があるのだろうか。
それとも単なる当て推量?


「この時期に天皇は三人できたことになる」(P.85)と述べられているように、
後醍醐天皇、北陸の新田義貞の擁する恒良親王(天皇)、光明天皇の三帝の綸旨が、

3つのルートからそれぞれ出ているというようなことは、

天皇をいただくシステムにとって、天皇の権威が低下する根本であるので、

後醍醐天皇と和睦して、綸旨の出るルートを一本化し
天皇権威の回復を図るという意図であったように思えてならない。


著者は、「謀略家」などと好意的とも取れる評価を後醍醐天皇に与えているが、
正直、我欲を最優先させて、統治する者としての天皇の権威を貶めるような

三帝の並立する状態を出現させた後醍醐天皇は、
綸旨至上主義をとりながら、天皇の権威を低下させた最大の元凶であるように思う。


新田義貞を倒して、征夷大将軍に任じられる際の記述としてまたも、
「わずかに残る一抹の不安は、やはり後醍醐天皇のもとではないということであったろう」(P.92)と
書かれているが、

これも北陸の恒良親王(天皇)を通して出ていた綸旨が、
せめて後醍醐と光明の二帝に抑えられたことに対して、安堵の気持ちはあっただろうとおもうが、

「後醍醐のもとで」というような無邪気な子供のような気持ちをもっている政治家では、
足利尊氏はないように思う。



「後醍醐天皇のように律令国家を復活させることが正しい道かどうかを、
はっきり見きわめることがたいせつである」(P.99~100)

と著者自身が書きつつ、尊氏が

「後醍醐天皇に対して、何かの罪業意識をもっているかのようにも、うけとれる」(P.102)ともいうのは、
なんだか情緒的にすぎるような気がする。


後醍醐天皇が崩じた際に、尊氏は
「直ちに幕府の雑訴を七日間停止し、すべてを崇徳院の例に任せて執り行った」とあるように、

京外の地で亡くなった後醍醐天皇が崇徳院のように、祟りをもって世に残るのを防ぐためで、

「このような天皇に対する尊氏の恩徳報謝の念は、さきにみたような天皇の尊氏に対する態度と対照すると、
はるかに純粋なものであったということになろう」(P.103)

というような読みはあたらないのではないかと思う。
祟ってくれるなという鎮魂の意味もこめて天竜禅寺を建立したのではないだろうか。



後醍醐天皇と足利尊氏の文脈で、作者の南朝正統、後醍醐正統臭を感じたのは、
以上に書いたような部分で、



南朝側についての記述で奇異に感じたのは、

まず楠木正成についての部分では、

『吾妻鏡』から楠木氏が現われる場面を拾い、前後に忍三郎、忍五郎という名があるからといって、

「楠木氏が、いざという場面には間諜の役目をもって敵陣の同棲をさぐり敵方の秘密をかぎ出すような、
一種の雑役に従う人々と、深い関係にあったことを示す」(P.64)とは、

無理がありすぎるのではと思う。
どうかんがえても地名の忍(おし)からくる名前だろうとおもう。


また、「皇室の前途のためには尊氏との和睦をも主張するような柔軟性をも持ち合わせていた人物」(P.77)と、

楠木正成を評価するが、楠木正成が新田を捨てて、足利と和睦するように勧めたのは
「皇室の前途」のためなんだろうか。

楠木正成自身の生き残りから考えても、
そのような進言に従ってくれた方がありがたいだろうし、

楠木正成の従来の戦いの経緯から見ても、楠木正成は護良親王系の人物で、
それほど後醍醐天皇に対して格別の親近感をもっていたようには思えないのだが。



楠木氏以外の面で、南朝の記述についてのおかしいと思うところは、

東国(常陸)で基盤を築くことに失敗して吉野に帰ってきた北畠親房について、

「親房の帰来は吉野側に大きな安堵を与えたばかりでなく、前途にかなりの希望を与えたことと思われる」
(P.130)と

書いているが、親房が大群を率いて帰来したのであればともかく、
常陸にいることもできなくなって吉野に帰ってきたことがどうして希望を与えるのかと感じざるをえないし、


高師直・師泰の軍が、楠木正行の軍を破り、正行を敗死させ、
その後、熊野を焼き払って、後村上天皇のあとを追おうとして時に、野伏ら数千騎に追われたことを、

P.133「やはり地方民衆の同情が吉野側にあったことを物語るものであろう」(P.133)

と述べているが、
熊野三山の僧兵勢力かなにかであろうか野伏の勢力、

つまり地元の寺社の勢力ですら、このような窮地にならねば動員できないとは、
南朝の軍事的状況はお寒いといわざるを得ないと思う。


そんなわけで、あまり納得のいかない記述が目についたのでした。
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